Visions session vol.3 森田尚人さん 講演レポート(前編)

日本のおもてなしを、世界中の人々へ。

―まず初めに、会社の紹介をお願いいたします。

Plan・Do・Seeは1993年に始まった会社で、社員は800名で男女比1対1、総売上が350億円ほどです。ミッションは「日本のおもてなしを世界中の人々へ」。「日本のおもてなし」の僕たちの解釈としては、和食を広めることや和服を着てサービスすることではないと思っていて。初めて出会った僕の話をこんなに真剣に聞いてくれている皆さんの顔を見ていると、日本で生まれ育ち、様々な価値観に出会い、親御さんから愛を注がれ形成されてきた性格や、人を思いやる、リスペクトする気持ちといったおもてなしの文化がすでに根付いていると思っています。先日サッカーのアジアカップでも、決勝で負けた日本のロッカールームがきれいに掃除されていて、英語とUAEの言葉で「ありがとう」とつづられていたことがニュースに取り上げられ、話題になったと思います。あれも、誰から頼まれたものでもないけれど、僕たちが持っているキャラクター、オリジナリティで、世界から称賛されたもの。

これまでものづくりが素晴らしいとか、日本人の真面目さといったところにリスペクトがあったのと同等に、僕たちの考え方や思いやりといったところが世界から称賛されている。それらに接した人は、ちょっとでも心が豊かになったり、幸せになったりするんじゃないかなと思っています。

そういう想いが世界中に点々と増えていって、広がっていくと、そこに触れたり働いたりする人の間にも幸せが増えるんじゃないか。そう思いながら、「世界中の人々へ」と掲げてやっています。

そして、ビジョンに「日本・世界の素敵な場所に街の価値を上げ関わる人すべてが誇りを持てる最高に心地の良い空間をつくり進化させ続けていく」ことを掲げています。

Plan・Do・Seeホテル、レストラン、ウエディングの3つを主軸として、26年前に立ち上がりました。当時の結婚式はホテルでやるのが当たり前で、オリジナルウエディングというのはなく、結婚式場というのがまだまだ少なかった。毎回進行も一緒だし、料理もあまり美味しくないし、あまり楽しくないな、と思った社長が、「自分だったらもっと面白くできるのに」と、ゲストハウスの結婚式場というところから始めました。

僕たちは世界中に、「あの場所が出来たから、あそこに行ってみようか」という目的になる、街や国のシンボルとなるホテルをつくりたいなと思っています。ホテルの中にはウエディングやレストランも含まれているので、大きく「ホテルマネージメント会社」と言っていて。ホテルをどこに建てるか、日本中・世界中に足を運んで決めますし、内装外装のデザイン、ホテルが建った後のお客様をお迎えする人の運営・オペレーションも行なっています。外注でサービスを入れるなど、分業で行なっている会社さんも多いのですが、うちはそこを一気通貫でやりながら、ビジョンを叶えていこうとしているのが特徴です。

また、26年間で培ったノウハウをもとにコンサルティングも行っています。方法として、僕たちは「会社は人が大事」だと思っているので、僕らのメンバーが1、2人、企業さまの中に入っていって、社員として働いています。会社ってチームなので、実際に背中を見せながら隣にいる人たちがどういった目標で働くのか?というのを見出したり、モチベーションをぐいっとあげたりして、その人たちのパフォーマンスを上げることで会社の業績を上げる、というのが特徴です。急に来た人がいきなり頭ごなしにあれこれ言っても、働いている人にとって気持ちよくないでしょうから、会社に入りこんで業績を一緒に上げていく。人を大事にする会社だからこそのコンサルティングだと思います。

今紹介した、3事業+コンサルティングが主軸になります。

運営している店舗には、「Plan・Do・See」という屋号は入っていません。ここに理由があって、僕たちは日本・世界の素敵な場所に街の価値を上げる、そんなホテルやレストランをつくりたいんです。そのため、その場所にあった、土地に根付いた歴史や文化、ストーリーをしっかり汲み取った上で、僕たちがリノベーションや事業再建をするという方法をとっています。一般的に、「Plan・Do・Seeホテル東京」が流行ったら、大阪、福岡…と横展開するのが、収益が上がりやすいセオリー。ですが、僕たちは会社を大きくすることが目的ではないし、Plan・Do・Seeという名前が世界中に広がることで人々が幸せになるわけでもない。ならば、その土地にあった僕たちだけができるレストラン・ウエディングをしようとコンセプトを考えた結果、名前もロゴも違うし、Plan・Do・Seeの名前も入らない、という形になりました。

海外では、アメリカのロサンゼルス、ニューヨーク、マンハッタン、ハワイやワシントンにも店舗があります。アジアもここ2、3年ぐっとやっていて、シンガポールが今年3月から、タイのバンコクは去年から、ベトナムは今年の1月からホテルを運営させていただいており、インドネシアのバリ島でもレストランとホテルを始めています。「日本のおもてなしを世界中の人々へ」というところが、26年かけながら少しずつ実ってきたかな、実現してきたかなという、ちょうど面白いタイミングだと思います。

また、色々な店舗がある中でも、行動指針として、「I am one of the customers もし自分がお客様だったら」というキーワードを掲げて、全員が働いています。

 

 

サッカーを通して得た「自信」。

続いて、Plan・Do・Seeという会社に出会うまで、僕がどんな人だったのか、ということについて話していきたいと思います。

これ、幼少期からやると結構恥ずかしいですね(笑)。平成元年生まれ、今年30歳です。生まれは東京で、4兄弟の長男。うちの家族はおじいちゃんおばあちゃんが一緒に住んでいて、お父さんお母さんがいて、僕の名前の「尚人」はおじいちゃんから「尚」の字を一ついただいてつけてもらいました。

父はゴルフのレッスンプロで、小さい頃からゴルフクラブを与えられて、スポーツ一家でした。生まれた時から心臓病を抱えており、だいぶ心配をかけたんじゃないかなと思います。毎日病院まで車で1時間かけて送ってくれたり、というのを目の当たりにしていたので、愛をたっぷり受けたなと振り返って思います。

4歳で手術をして、今では完治しました。元々は走れないかもくらいだったのですが、この後小学2年の時から友達に誘われて始めたサッカーを、大学までやりました。このときから、親の期待に応えることや、それを見た親の笑顔に対して、すごくうれしいなと思っていて。それが自分の喜びだな、親を喜ばせたいな、と感じていました。

実はサッカーを通して挫折をし続けるのですが、小学校2年生で誘ってくれた彼が今はプロになっているくらい劇的に上手かったんです。僕もそれなりによくできるのですが、比較されると全然違って。あれ、俺センスないんじゃないかなとか、こういう奴がプロになるのかなとか、なんとなく思いながら、サッカーは好きで、そいつが好きで、付き合ってやっていました。

自分って上手くないな、というのを比較してわかる相手がいたので、天狗にならずにすみました。彼がいたから僕はずっとそいつの二番手、三番手で、彼が転校した後でも、「あいつは上手かったなあ、俺はまだまだだなあ」と思ってやっていました。それもありがたかったなと思います。

大学の付属の高校に進んで、サッカーは続けました。チームでいつもうまい方に入るんですが、先ほどの彼がユースに入った、といったニュースを聞いて、俺は全然だなと思ったり。

実は、高校3年間で自分のコーチが毎年変わったんです。しかも、1年目のコーチと涙ながらのさよならをした後、新しく来たコーチが違うサッカーを教え始めて。そのやり方をしていたら、2年目の終わりにまたコーチが変わって、1年目の時の人が帰ってきたんです。その人は非常勤だったので、おそらく他所を経験して、常勤として戻ってきたんです。汚ねえ、ふざけんなよ!とめちゃくちゃ反発して、「僕らは2年目のコーチに教わったサッカーをやるんで、一切口出ししないでください」と言って、彼を遠ざけました。キャプテンを任されていたので、70人くらいの部活でABCチーム分けをしたり、練習メニュー考えたり、結構大変だったなあと思います。

高校3年間国立を目指して、「ここに立てたら大学でもサッカーやろう」と思っていたのですが、結果は都で16位しか行けなくて、当時はサッカーを辞めることを決断していました。

ただ、その時見ていた大学の先輩が、「一回でいいからうちの大学のサッカー見に来い」と誘ってくれて。いいから来いと言われて一度見に行ったら、根拠ない自信が再燃して。あれ、俺の方が上手いな、いけそうだな、これで関東リーグ1部なら俺もいけるんじゃない?と思い、続けることを決めました。

―「根拠なき自信」を持てる人は意外と少ないように思うのですが、まずは飛び込んでみる!というふうになったのはいつ頃からですか?

サッカーについては、小さい成功体験を積み重ねていたのがあると思います。プロになった友人を見ているときは、「彼のレベルじゃないな、かなわないな」と思っていて、その時は根拠なき自信も何もないですが。長く続けていく中で上手くなったり、試合で任される役割とかが一つずつ積み重なっている感じはありました。自分に対する目線、自分を頼ってくれる人の多さというのが自信につながっていたので、実は根拠はありましたね(笑)。

自分の中でパーンと判断するのは、今まで培ってきた自信があって、自分自身に信頼を置けていたんだと思います。ただ、当時は自信があっても周りからは分からず自分だけがわかっていた、ということだと思います。

 

努力し続ける人しか輝き続けられない。

大学のチームは基本、推薦でしか人をとっていないのですが、僕は附属のため入れました。ただ、「お前、4年間ずっと下のチームだけどいいの?やるの?」と言われて、「全然大丈夫です、いけます」と言って入部します。

入ってみると、全国から都道府県でトップ1、2みたいな高校から集まっていて、大学と高校でも体格の差がめちゃくちゃあるんです。高校サッカーで名を馳せていても、大学では一気に子ども。こんなに違うのかと感じました。

100人いて8チームあり、下から2番目のDチームから始まります。Aチーム以外は監督・コーチがいないので、学生でメニューを組んでやるんですが、朝練しかなくて。朝の7時からAチームが練習を始めるので、そのほかのチームはそれより前の時間でやってください、と言われるんです。最悪でした。なので、朝5時半から練習開始で、1年目はさらに1時間前集合なので、え、4時半?え、何時に寝る?え?みたいな(笑)。そんな感じの1年間を過ごして。

土日だけはグラウンドが終日空いているのでちょっと楽なのですが、たまに監督がちらっと8時半くらいにきて、紅白戦を見たりするんです。1年の5、6月頃に、たまたま僕が出ていた紅白戦を監督が見て、「今日の夜の慶應戦来い」と呼ばれて、行くことになりました。1試合目は出られず、2試合目の最後15分で「お前出ろ」と言われ、たまたま1点とってからはシンデレラストーリー。その後上から2番目のチームに入って、夏合宿でAチームに入って、夏にAベンチに入るという奇跡的な6ヶ月を過ごしました。

Aチームはめちゃくちゃレベルが高くて、AとBの差も大きいのですが、Aの中でもスタメンとサブにはめっちゃ差があります。そのAチームのスタメンの何人がプロに行けるんだろう?というのも、だんだんわかってくるんです。

でも、僕もサッカー選手になりたいから頑張ります。毎日入れ替えの連絡が来るので、ヒヤヒヤしながら緊張感の中で1年間を過ごして。Bに落ちたら監督がいないのでスピード感が落ちて、すごい人間って弱いな、と気づきました。見られなくなった瞬間に怠けるんですね。そのチーム環境が楽だから慣れて、「一旦ちょっと休もう」という雰囲気になる。すると、どんどん下手になって、どんどん落ちていく。

高校時代あんなに素晴らしかった選手が、どんどん落ちて、辞めていく。4年生になったら30人いた部員が10人になっている、というのがちょっとした社会というか、リアルだなと思って。Aチームにいる人は自分と向き合いながら練習している人や、愚直にやっている人で、そんな人しかスーパースターになれないんだなと気づけた大学4年間でした。

大学3年の冬に、僕は怪我もあり、就活もしないと、ということでサッカーを辞めました。

 

―自分より明らかに上で叶わない人のことは、どのような存在として見ていますか?

サッカーにおいては、彼を超えようというマイルストーンとしておいていました。でも、今はそれぞれの人生があって、そこに至るまでの努力は計り知れないし、頑張っていることには間違いないので、単純にリスペクトしています。

そこに対して、対等にフェアでいたいなと。自分たちが勝手な思考で「あいつは上手いぞ、俺は下だ」と思っているだけなので、自分は今サッカー選手でなくても、対等な立ち位置の人間として付き合いたいと思っています。

 

―そうした人を見ていて心が折れそうになった時は、どうやって立ち直っていましたか?

根本は、親の笑顔とか、親が喜ぶ顔とか、極論「こいつ産んでよかったな」と思わせるような人になりたいと思っていました。そこで自分が比較して負けていても、それって親が悔しいんじゃないかな、ぜったい「おめでとう」と言わせたいなと思っていて、そこのモチベートは崩れちゃいけないなと。親を喜ばせる人生を歩みたいと思ったら、そこでブレている暇はないな、と思っていました。

「こんな息子でよかったな」と思って死なせるような自分でありたい、というモチベーションは軸としてめっちゃあるので、絶対ブレないです。自己肯定感ですね。自分で自分を、「こういう人であらなければいけない」と肯定しながら、それは親が望んでいるわけではなくて、自分の思考の方法としてやっています。

 

―その土台があるから、ライバルとの競争においてもベースがブレないんですね。

反抗期もなかったです。やりたいことをやらせてもらって、助けてほしいときに助けてもらった。ずっと応援してくれたなと思うので、親を裏切れないし、返さなきゃという思いがすごく強い。だから、寄り道してる暇ないだろう、って。

とはいえ、Bチームに落ちて、超ラクでそっちに寄った時もありました。朝練なのに23時-4時で飲んで、3時間睡眠で意味の朝練をしたりとか。そんな時に親の顔が思い浮かんで、「俺何やってるんだろうな」という葛藤をしたり。でも、勝手に背負っているっていう感じですね。

 

これは、サッカーくらい夢中になれるかも。

その時たまたま、ある飲食店の経営者と出会ったのですが、その人がすごいパワーで生き生きと働いているな、と思って。僕は社会を知らなかったので、「こんな大人もいるんだな」と思いました。

彼が「お前は先生かサービス業が向いてるから、絶対やった方がいい」と言って、本をたくさんくれたんです。それで、サービス業とかも面白いんだろうなと思っていて。怪我もあって、アルバイトやってみようかなと思ってみた頃に、当時、サービス業といえばグローバルダイニングだと本に書いてあったので、どうせなら一番のところに行こうと思い、アルバイトとして入社してみました。

サービス業って楽しいなと気づき、人と相対して、自分が努力した分だけお客様に還元できて、それがポンっと跳ね返ってくる瞬発性が面白いなと思って。サッカーに変わる可能性があるかも、というのをちょっと見出しました。

そして、安定のイメージが強い金融と、なんとなくワクワクする仕事・ホテル の二軸で就活を始めました。

なんとなく考えていたのは、社長の姿を見ていて「自分でビジネスすることの楽しさってあるんだろうな」とか、「その人の周りの社員のように、生き生きと働けると楽しそうだな」とか。3年くらいで独立して会社を起こして、お世話になったその人に恩返しできるようになりたいな、と思っていて、就活の相談もたくさんしていました。

その頃、リクナビでかっこいいホテルの写真を見つけて、当時早期選考をしていたPlan・Do・Seeに出会います。選考を受ける中で、面接する人する人、みんなが僕が目指している人と同じように目標やビジョンを持って働いていることに、「こんな会社あるんだ」と驚いて。面接を8回ぐらいするのですが、その1回で1時間半ぐらい盛り上がる。僕みたいな学生にこんなに話してくれる会社他にないな、こういう人たちと働いてみたいな、と感じる相手が多くて、どんどん興味が湧いていきました。本気で仕事に熱中して楽しんでいる人が数多くいたことが、Plan・Do・Seeにのめり込み始めたきっかけです。

早くからチャレンジできるイメージもあり、若手がお店を運営していたり、ベンチャーみたいな感じもあったので、第一志望でPlan・Do・Seeを受けて、内定をいただき、就職しました。

 

―プロへの道が断たれたとき、例えば選手を支える道もあったと思うのですが、サービス業に行った理由は何ですか?

整体や理学療法士になる道も教えてもらったのですが、単純にそこにワクワクしたことがなかったんです。

僕がサッカーを続けたのは、好きだったからで、ワクワクしたから。理学療法士、整体師という仕事の素晴らしさやありがたさは知っていましたが、その先の未来に僕自身がワクワクしていなかったので、それを夢においても努力しないだろうなと分かっていました。

僕が好きなこと、やりたい、ワクワクすること、というのが優先順位の中で高くつけられるので、そう考えたときにサッカーと同じくらい熱量を注げそうだと思ったのがサービス業でした。だから、そこにグッとシフトしたのだと思います。

 

―実は僕も大学までずっとサッカーをしていて、プロを目指してきたのですが、大学3年目でプロになる人との熱の違いに気づき始めて、就活を始めたところです。その中で、ワクワクがなかなか見つからないのですが、見つける方法はありますか?

就職活動の時期であれば、自己分析になるだろうと思います。過去を振り返って、どんなときに自分がうれしかったか、どんなときに辛かったか、なんでそれをやったのか、そこを「WHY」で考えて思考を深掘ると、共通するものはあるかなと思います。

僕がワクワクしたのは直感。でも、直感というのはその人が生きる中で培ってきた脳ミソだから、紐解くとちゃんとロジックがあるんです。そこは信じていいかなと思っていて。

まずいろんなものに興味を持って、触れてみるというのは、単純に見つける上で大事だと思います。その中で、ふとこのキーワードにワクワクしたな、というのを深掘りしてみると、もしかしたら行き着くかなと思います。

もう1つ思ったのは、僕は自分が諦めたからサッカー選手になれなかったんだと思います。誰からも、神様からも「お前、無理だよ」なんて言われていない。サッカー選手になっている人は、ずっと「なれる」という自分を信じる力が強い人なんだと思います。海外の3部リーグ、4部リーグで働きながら目指している人もいるので、彼らがステップアップしている様を見ていて素晴らしいと思います。

本当にサッカー選手が自分のワクワクするものならば、それをする人生もアリだと思います。無理やりやりたいことを探すよりも、今一番ワクワクするものがサッカー選手なら、21歳ならまだまだいける。夢は、自分が諦めた瞬間叶わないことが確定するので、強い自分を信じる意志と、本当にそれをやりたいのか?というロジックを持つこと。自分は実現できる!と思う力って、人生において大事だと思います。

誰も人生に意味をつけてくれないじゃないですか。超ドライな見方をすると、みんな心臓があってドクドクしていてただ生きている物体なだけ。それを自分で意味づけするのが面白くて、だからこそ自分がやりたいことやワクワクすることに素直になった方が、イキイキ生きられそうだなと思います。働くために人生があるのではないし、楽しく生きるために働くという手段を使う、という考え方がハッピーじゃん、とすごく思いますね。

 

〜つづく〜

▶︎講演動画はこちらから!

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